自由な生

つまらない目的意識は、不自由と盲目、鈍感を生じていた。

 

例えば、夜、街を歩いてても思ったが、「この街について新しい発見があった」ということは、価値のないことだった。今まで、街を歩くのにその街を知ることを目的にしていた。そんなところにまで目的を求めていた。

 

昨日は、ただ、初夏の爽やかな夜風を感じて歩いていた。同時に渋谷という街の騒々しい不穏さに若干の不安も感じて。歩きながらいろんな考えや感情が浮かんでは消え、そうしたものが自分を現実の世界から引き離していく。ふっと、気づいては、目の前の世界に注意を向けなおす。

 

なんかよくわからないけど生きてる感じがした。自然な虚しさも伴って。

 

そんな日曜日の夕食後。

 

なんか突飛に思ったけど

言語って法の一種とも考えられそうだ。例えば、日本語において、「木」という単語について考えてみると、日本に住み着いた昔の人々が、《木》なるものを見てそれを「木(き)」と呼ぶと取り決めたのだろう。もしくは、慣用的に、徐々にみんながそのような表現を受け入れ、使用するようになった。まさに、言葉という人間としての認知活動・意思疎通上のルールを、社会的に取り決めた、そのルールが、日本語などの各言語なのだろう。なんとも身近なところに、自然発生的な「法」なるものが存在していたのだな。しかも、《木》のことを日本語では「木」と呼ぶことを、子供の頃からある意味強制されて我々は育てられる。ずいぶんそのへん無自覚であったように思った。


でも、「強制」っていう言葉はこの場合いい響きじゃないな…  言葉教える大人は優しく教えてくれただろうし。善意の「教育」。でも本質は…

自分との関わりにおける法律の在り方って?

最近学んだことで大きかったこと。法律と学校との関係。特に校則。自分が通った学校でもそうだったのだが、学校が生徒の髪型を強制的に規制したり、挨拶を強要したり、帰宅時に寄り道を許可しなかったり、また、こうしたことを守らなかった生徒に懲罰を加えたりするのは、なんか、生徒の人権侵害的な要素ってないのかなって感じていたのだけど、そうした疑問というか、何だか腑に落ちない自分の被害者感覚に対してこの社会(法律あるいは判例)は一応回答のようなものを与えていることを知った。

それによると、基本的に、法律は、教育の多様性のようなものを認めていて、また恐らく私学にはよりその独自性のようなものを尊重しているらしく、そのことが学校社会に自治を認め、「内輪のことは内輪で」やりくりさせるということらしい。この教育の多様性というのは確かにこの社会や文化の多様性の根源であると思うし、そのための「内輪のことは内輪で」という方針にもなんだか妙に納得してしまった。そして、なんだか救われた思いもした。なんだかずっと学校に対して納得のいかない恨みがましい思いがあったのだが、「あぁ、あれはあれで学校という内輪の文化として社会的に一応尊重はされるものだったのだな。そして、それが自分に合わなかった、それ以上でもそれ以下でもなかったんだ。」と思うようになった。なんか意外な視点だった。

校則の違憲性を巡っては、どうもいくつも判例があがっているようで(この言葉遣い変かな)、自分が見た限りでは(まだ法律勉強したてで偉そうなことは何も書けないが)
どれも否定的な判決が出されていた。つまり、違憲ではないということ。微妙な部分もあるらしいのだが、嫌ならその学校に通わなければいいのだし、また、当該生徒の訴えを認めると他の生徒との関係において、公平性や学校秩序維持の観点からより大きな問題に発展しかねない部分があるらしく、無条件に一人の生徒の自由権を優先させられるわけではないということだった。まぁこれも納得した。

このように、法律を学んでいると自分と無関係でない事項にもいろいろ遭遇する。自分の日常の思考にも、そうして学んだことが、少なからず影響してきている気がする。そこで思うのだけど、こうした法律に関する学びを自分にどう影響させるか、これについてまだよくわからないでいる。いわゆるリーガルマインドなるものは、法律が問題になる場面を中心に発揮させるべきで、日常生活にまで持ち込むべきでないのか、あるいは、日常的にそうした考え方を実践していくべきなのか。

こうした疑問を念頭に置きながら、学びを深めていこうと思う。


4月30日 会社の先輩と両国のお祭りで遊ぶ。横綱と2ショットを撮ってもらう。駄菓子屋で大人買いし、スカイツリーを初体験。天丼を食べて帰る。

 

こうやって、知らない街で誰かと遊ぶとなると、気疲れすることがほとんどだった。それがなぜなのか、これまで分からなく。自分のせいではないように思っていた。自分のコントロールの範囲外で、どうしようもないことなのかなと、ストレスは体にも悪いしそういう機会はなるべく避けようとしてきた。

 

それが、ここ最近だんだん、こうした気疲れの原因が、やはり自分の完全主義にあるようであることに気付いてきた。線ではなく点としてのあり方、不完全なあり方、全てを知ろうとするのでなく、何か拾えたらラッキーかなというくらいの態度、つまり、出会うものごとに対して、ビニール袋であらゆることを捕らえようとするのでなく、虫取り網で肝心な虫だけ捕れれば上出来だぐらいの態度で生きることを覚えた。そうしたら、知らない土地に行って面白いものを探したり、駄菓子屋で大量のお菓子のなかでよい選択をしようとするに際しても、目に入ったなかで、良いものにであったと思ったら、その(不完全な認知のなかで甘んじて)他の選択の可能性は排してそのものに決めてしまう、で、それでよいと思って、もう次の瞬間を生きる、そんな、感じの在り方になったら、うんと生きるのが楽になった。恐らく、数学やら何やらを学んでいて、全体をまず把握してそのなかから最適解を選択するとか、そういう発想を日常生活にまで知らずのうちに実践してしまっていたようで、それが、情報過多を引き起こし脳に気疲れさせてしまっていたようだった。

ということで、この日もそんな感じでいたら、特に1日疲れることもなく、普通に楽しい時間を先輩と過ごすことができた。なんだ、そんなことだったのか、と、気付いてしまえば大したことでないように思えてしまうが、もっとこの変化に感謝した方がいいような気もする。

そして、残りのゴールデンウィークは、府中への引越作業&お勉強で、まあ楽しい休暇となっている。前の引越しに比べれば、要領もだいぶましになったように感じた。キザな表現すれば、今回は、エントロピーの関数をその都度神経質にコントロールしようとしなかったので、以前のようなフラクタルのような形でなく、単調増加から単調減少のような自然なかたちででき、作業も滞りなく、ずいぶん順調に進めたと思う。

あとは、このきれいな部屋を自然体で雑に使い、環境適応も雑でいいから自然のなりゆきに任せようと思う。意外な視点。いつも呼吸に注意するということ。そして、前へ前へと生きていく。

読んでいる本。

・「法と社会」 碧海純一

・ 行政書士のテキスト

・ 最強の法律学習ノート術 木山泰嗣著

・ 現代法学入門 

・ プレップ 法学を学ぶ前に

・ 法学入門 早川吉尚著

・ 現代論理学入門 沢田允茂著

・ ビジネス実務マナー検定受験ガイド3級

…など

法学の勉強にハマっている。学んだことを、明日自分なりにまとめよう。