求めるのをやめる

知識・能力や資産、家庭、愛、人間関係…

今あるもので十分であるというのに、これ以上何を求めるというのだろう。

 

清貧という言葉がある。お金についての話だけでないのかもしれない。知恵や愛、健康、環境についても、そのようなあり方で、いることができる。

 

与えられたもので、生きることができる。ただ生きるだけでなく、誰かに与えることだってできる。

 

そんな時が来ているように思う。

ゆだねること

今まで、人間関係でも、仕事でも、遊びでも、何でも自分の頭や考えで、解決したりうまくことを運んだりしようとして、オーバーワークになって自滅する、というのがよくあるパターンだった。

が、自分が正しいという感覚でいることがだんだんめんどくさくなってきて、自分が正しくふるまうことをいい加減あきらめた。そのあたりをもっと人にゆだねるようになった。それは、周りに対する甘えというよりかは、信頼である。自分が面白いこと言うとか、賢明に振舞うとか、自分の力だけに頼るのをやめ、相手を信頼し、相手を信じること。そして、相手の振る舞いに新鮮な感動を覚えること。

あるていど、他者に委ね、信じることで、自由を感じている。

いま、自分についての議論を手放すとき

自分のなかでの無駄な議論を、やめる。Evernoteも含めて。
無駄な議論をやめて、良いこと、正しいことをすること
 
自分のやりたいことについてあれこれ議論するのをやめ、やりたいことをすること。
→  法律の勉強がしたいと議論しているなら、いま法律の勉強をすればいい
 
大学に入れば法律の勉強ができる、大学でなければできない、とどこかで思っている。だが、法律の本は巷にたくさんあるし、他の機会もたくさんある。要は、それを生かすか否かは自分次第。また、問題は、ただやるか否か。大学は、手段であって、主体的に利用するもの。主体的でなければ、大学に入っても、ただ入っただけになるだろう。京大でもそうだった。
 
大学じゃなきゃダメということはない。主体的に大学を利用しなければ、また同じ道を歩むことになる。
 
 

相模原の事件について

事件を知って非常に悲しかった。被害者の方たちに対していたたまれない気持ちになった。ちょっと泣いた。

 

人間という存在は、元来的に不完全な存在なのであって、すべての人が障害などなく健常に生きる社会など、とんだ夢の世界だ。この容疑者はその辺、無知というか、酷い思い違いをしている。

 

人間存在が本質的に不完全であるなら、僕らはそれを直視して、それとともに生きていく術を皆で見いだしていかねばならない。

 

そして、障害の有無とは関係なく、人というのは、その存在そのものが、涙が出るほど、驚嘆すべき奇跡なのだと僕は思うのです。

 

だって、この世界は、何から始まったのか、よくわからないけれども、僕らには、すごいものが様々備わっていて、何でそんなものが今この世界に存在するのか、思いを馳せてみると、宇宙やらなにやら自然の形成作用やらなにやら不可思議びっくり恐ろしいほど凄まじい何かがあるんだ、と、思わずにはいられないから。

 

足というものが、どういう経緯でこの世界に存在するようになって、歩く(自分の意思で移動する)ことを、可能ならしめたのか。

 

手も然りだし、目という存在も驚異!  なんで、見えるの!?  と思いませんか!?  この世界が、何で「見える」の!?

 

何かものを食べるために、「歯」が我々にはある。歯なんて、誰かが意図したわけでもないのに、「食べ物を噛み砕いて自分の体に取り入れる」ために、そこに存在する。自然の流れで、この世界に、「歯」が生まれた。白くて硬い歯。ものを噛み砕くために、まさにそのために、この世界になぜか存在するようになった。「意味」をもって。

 

私たちの、「意識」という存在も、驚異じゃないだろうか。この世界を、意識する、存在が、この世界に存在している。それぞれ、独自の意識をもって、世界を捉えている。それは、猫ちゃんもワンちゃんも、ダンゴムシでも、たぶん、何か「知覚」していて、それは、等しくこの世界の驚異であるように思う。

 

もちろん、障害者の中には、こうした人間が自然に与えられた「機能」を完全には備えられなかった人もいる。でも、その存在って、何かとても、涙が出るくらい大切にしたい、それだけで、その存在だけで、とてつもない、何か、みんなと同じ、唯一無二の特別な意味をもつ存在だと、私には思われるのです。

 

心臓が動いて、肺を通して息を吸って。生命がそこには、息づいている驚異。尊さ。もちろん、産んでくれたお母さんがいて、お父さんもいて、家族がいて。そして、大切に思ってくれる周りの人たちがいる。

 

もちろん、本人にも周りにも、醜いことや、苦しいこと、ムカつくことも、人間だから様々あるでしょう。でも、それこそが、人間として生きる、本当の価値だと思いませんか。

 

ぶっちゃけ、私も一応障害者で、少なからず援助もうけていて、とやかく言える立場にもないのだけど(自己正当化はできない)、でも、私は、一障害者として、そういうふうになってから、障害者を愛するようになったし、人間一般を愛するようになった感じがしています。

 

今回の事件で、障害者は社会的な無駄か否かの論争みたいのが仮に起きたとしても、それ自体全く無駄だと私は思います。それは、自明に、既に答えは出ているものだと思います。障害があってもなくても、人間存在は等しく尊重されねばならないのです。生きているそれだけで、人間というものは尊いのですから。

経済的な負担がかかるとか、私はとやかく言える立場にはありませんが、しかし、人間社会の発展を、経済的合理性の観点からしかとらえられない、貧弱な世界観は、別のものと交換したほうがいいと思います。人間の世界は、そんなケチなものではない。もっと深遠で、不可解で、慈愛に満ちたものだと思います。そうしたものには、頭でなく心で触れあわなければならないのです。

 

となにやら独断と偏見で偉そうに書いてしまいました。