相模原の事件について

事件を知って非常に悲しかった。被害者の方たちに対していたたまれない気持ちになった。ちょっと泣いた。

 

人間という存在は、元来的に不完全な存在なのであって、すべての人が障害などなく健常に生きる社会など、とんだ夢の世界だ。この容疑者はその辺、無知というか、酷い思い違いをしている。

 

人間存在が本質的に不完全であるなら、僕らはそれを直視して、それとともに生きていく術を皆で見いだしていかねばならない。

 

そして、障害の有無とは関係なく、人というのは、その存在そのものが、涙が出るほど、驚嘆すべき奇跡なのだと僕は思うのです。

 

だって、この世界は、何から始まったのか、よくわからないけれども、僕らには、すごいものが様々備わっていて、何でそんなものが今この世界に存在するのか、思いを馳せてみると、宇宙やらなにやら自然の形成作用やらなにやら不可思議びっくり恐ろしいほど凄まじい何かがあるんだ、と、思わずにはいられないから。

 

足というものが、どういう経緯でこの世界に存在するようになって、歩く(自分の意思で移動する)ことを、可能ならしめたのか。

 

手も然りだし、目という存在も驚異!  なんで、見えるの!?  と思いませんか!?  この世界が、何で「見える」の!?

 

何かものを食べるために、「歯」が我々にはある。歯なんて、誰かが意図したわけでもないのに、「食べ物を噛み砕いて自分の体に取り入れる」ために、そこに存在する。自然の流れで、この世界に、「歯」が生まれた。白くて硬い歯。ものを噛み砕くために、まさにそのために、この世界になぜか存在するようになった。「意味」をもって。

 

私たちの、「意識」という存在も、驚異じゃないだろうか。この世界を、意識する、存在が、この世界に存在している。それぞれ、独自の意識をもって、世界を捉えている。それは、猫ちゃんもワンちゃんも、ダンゴムシでも、たぶん、何か「知覚」していて、それは、等しくこの世界の驚異であるように思う。

 

もちろん、障害者の中には、こうした人間が自然に与えられた「機能」を完全には備えられなかった人もいる。でも、その存在って、何かとても、涙が出るくらい大切にしたい、それだけで、その存在だけで、とてつもない、何か、みんなと同じ、唯一無二の特別な意味をもつ存在だと、私には思われるのです。

 

心臓が動いて、肺を通して息を吸って。生命がそこには、息づいている驚異。尊さ。もちろん、産んでくれたお母さんがいて、お父さんもいて、家族がいて。そして、大切に思ってくれる周りの人たちがいる。

 

もちろん、本人にも周りにも、醜いことや、苦しいこと、ムカつくことも、人間だから様々あるでしょう。でも、それこそが、人間として生きる、本当の価値だと思いませんか。

 

ぶっちゃけ、私も一応障害者で、少なからず援助もうけていて、とやかく言える立場にもないのだけど(自己正当化はできない)、でも、私は、一障害者として、そういうふうになってから、障害者を愛するようになったし、人間一般を愛するようになった感じがしています。

 

今回の事件で、障害者は社会的な無駄か否かの論争みたいのが仮に起きたとしても、それ自体全く無駄だと私は思います。それは、自明に、既に答えは出ているものだと思います。障害があってもなくても、人間存在は等しく尊重されねばならないのです。生きているそれだけで、人間というものは尊いのですから。

経済的な負担がかかるとか、私はとやかく言える立場にはありませんが、しかし、人間社会の発展を、経済的合理性の観点からしかとらえられない、貧弱な世界観は、別のものと交換したほうがいいと思います。人間の世界は、そんなケチなものではない。もっと深遠で、不可解で、慈愛に満ちたものだと思います。そうしたものには、頭でなく心で触れあわなければならないのです。

 

となにやら独断と偏見で偉そうに書いてしまいました。

 

 

 

 

 

世間の厳しさ。

それは、社会にあるのでなく、自分自身のうちにある。

世間が厳しいのでない。自己の内面が、厳しい…

自由な生

つまらない目的意識は、不自由と盲目、鈍感を生じていた。

 

例えば、夜、街を歩いてても思ったが、「この街について新しい発見があった」ということは、価値のないことだった。今まで、街を歩くのにその街を知ることを目的にしていた。そんなところにまで目的を求めていた。

 

昨日は、ただ、初夏の爽やかな夜風を感じて歩いていた。同時に渋谷という街の騒々しい不穏さに若干の不安も感じて。歩きながらいろんな考えや感情が浮かんでは消え、そうしたものが自分を現実の世界から引き離していく。ふっと、気づいては、目の前の世界に注意を向けなおす。

 

なんかよくわからないけど生きてる感じがした。自然な虚しさも伴って。

 

そんな日曜日の夕食後。

 

向上するという目的を捨てるとどうなるだろう

生は、ストーリーでなくなる。

 

そして、今この瞬間は、単なる点。

独学の危険

私は嘘つきです

とは原理的には言えないこと。

一人で生きようとすることにも、同様の自己矛盾があるように思う。

先日、憲法学の先生の講演聴いて思った。法律を、よい先生のもとで学びたい。

うーん。

今書いたこと「法」を拡大解釈しすぎているきらいがあるかもな。まだまだ勉強が足りない。

なんか突飛に思ったけど

言語って法の一種とも考えられそうだ。例えば、日本語において、「木」という単語について考えてみると、日本に住み着いた昔の人々が、《木》なるものを見てそれを「木(き)」と呼ぶと取り決めたのだろう。もしくは、慣用的に、徐々にみんながそのような表現を受け入れ、使用するようになった。まさに、言葉という人間としての認知活動・意思疎通上のルールを、社会的に取り決めた、そのルールが、日本語などの各言語なのだろう。なんとも身近なところに、自然発生的な「法」なるものが存在していたのだな。しかも、《木》のことを日本語では「木」と呼ぶことを、子供の頃からある意味強制されて我々は育てられる。ずいぶんそのへん無自覚であったように思った。


でも、「強制」っていう言葉はこの場合いい響きじゃないな…  言葉教える大人は優しく教えてくれただろうし。善意の「教育」。でも本質は…